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ジェームスとダマシオと森田

 まずジェームスとダマシオの違いから

ダマシオはジェームズを引き継いで、身体状態が心の状態に先立つと考えている。その上で、ジェームズが当時言及しなかった脳と身体を結ぶ大規模な神経活動を考慮に入れ、情動を単に身体状態の認知ではなく、身体状態とその認知の両方を含むものだと論じている。

東京大学教養学部哲学・科学史部会 哲学・科学史論叢第十三号 平成23年3月(77-101)

身体状態と意思決定 西堤 優 より引用

 すなわち身体状態の変化(ダマシオのいう情動)は感情を生み出すだけではなくて、認知の変化もさせるということである。ジェームスは認知の変化までは論じていなかった。

悲しみや喜びの本質は、いくつかの身体状態と、その身体が並置されている思考とを結びつけて知覚することだが、それは思考のプロセスの様式と効率の変化により補完される。一般的に言えば、(ポジティブなものであれネガティブなものであれ)身体状態の信号と、認知の様式と効率は、どちらも同じシステムから誘発されているから、それらは調和的である(ただし、身体状態信号と認知様式の調和は、病的な状態においてだけではなく正常な状態においても崩壊する可能性がある)。たとえば身体状態がネガティブであれば、イメージの生成は遅く、イメージの多様性は少なく、推論は非効率的である。身体状態がポジティブであれば、イメージの生成は迅速で、その多様性は増し、必ずしも効率的ではないにしても推論は速い

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 アントニオ・R・ダマシオ著 田中 三彦訳

ちくま学芸文庫 P233

 では森田はどうだろう?独特の二面感を出しているが、

彼の「ジェームズ」は、「吾人は、悲しきために泣くのではなく、泣くがために悲しいのである」といって、悲哀の情と表情の前後関係を反対に見て居るけれども余は涕泣の表情と、悲哀の自覚とは、単に同一事実を、客観的と主観的との二方面より観たる相違たるに止まり、実に之を同一の現象と看做すものであるから、其自然の経過によりて、放散するものと解してよいことと思うのである

森田正馬全集 第二巻 P345

 実は森田も認知の変化に言及しているのである。

これは総て活動がよければ其の人は快活になる身体を動かせば機関の調和も良く、新陳代謝の盛んになるけれども、総て活動しないで、始終引っ込み思案で運動の鈍い時は、其の精神も陰鬱、不決断になる。運動の盛んな人と不活発な人とは、何かに付けて必ず其の人の思想が違う。思想は其の人の感情、気分より起こるからである。之を反対に、気分が爽快であるから活動が盛んになるといっても同様である。爽快ならば活発になり、活発になれば爽快になって、交互作用で益々活動が大きくなる。何方からでも見る事が出来るけれども、陰鬱なものでも次第に活動させるようにすれば、次第に快活になって来るのである。

森田正馬全集 第一巻 P523 精神療法講義 から

 すなわち身体状態の変化は、認知も変える、体験的修正の根拠となるところではないかと思う。

 

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