依存と習慣
前の投稿で「日常生活が大切」ということを書いたのだが、「日常の習慣」という言い方もできないわけでもない。
例をあげよう。ブラックジャック・テーブルで執りおこなわれる儀式には、どんな宗教の典礼儀式とも変わらない細かい注意が払われる。凝ったラテン語のミサを執りおこなうカトリックの司祭と同じように、ディーラーも、ほとんどのプレイヤーが認識しているよりずっと入念な脚本に従っているのだ。掛け金の置き方、カードの重ね方、配り方、特別な種類の切り方、そしてディーラーのローテーションーこれらすべては、ゲームの機密性を保証するためだけではなく、催眠術のような一連の手順によって、プレイヤーに衝動的な欲望を抱かせる精神状態へ導くためのものだ。
依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実 デイミアン・トンプソン 著 中里 京子 訳 P128
この文章からも、儀式的な動作の繰り返しは宗教も含めて特殊な精神状態を招く可能性を示している。森田もただ単に念仏を唱えることで、宗教に帰依する場合があることを書いている。
習慣は、良かれ悪かれ精神状態と少なくなく関連する。そのベクトルをどう向けるかが問題となってくる。
依存症の場合は、ドーパミンに関連するのだが。