無所住心2
前回の続きであるが、無所住心とはどういう状態なのか?ということについて。
森田の無所住心の定義を見てみると、
無所住心とは、吾人の注意(意識的注意)が、或る一点に固着、集注することなく、而かも全精神が、常に活動して、注意(無意識的注意)の緊張、遍満して居る状態であらうと思はれる。此状態にありて、吾人は初めて、事に触れ、物に接し、臨機応変、直ちに最も適切なる行動を以て、之に対応することが出来る。
ここでワーキングメモリを考えてみる。森田がワーキングメモリを考えていたことは説明しているが、ワーキングメモリの容量には限りがあることや、その容量は、意識的思索プロセスと直接知覚とで共有されているのだ。
もう一度、森田の定義を見てみると、無所住心という状態では意識的な注意や思索はほとんど行っていないように考えられる。そうすると、ワーキングメモリが空いて、外部知覚が入りやすくなる。外部知覚が入りやすいので、無意識的注意が際立つことになるのではないだろうか?
そして、その状態はどういうように形作られるか?それは意識の末梢性(遠心性)と関係する。意識的な実行を繰り返すことにより学習し無意識的技能となったときは、目標のみ意識するだけで勝手に身体が動く。その状態が「無所住心」の一つの形であり、「体得」の一つでもあると思われる。
また、この意識的実行(努力)によって、人間の技能・技術・能力を精緻化していくことによって、よりよい生活を目指すことができることになるのである。これを「努力即幸福」という。
これはあくまで私の仮説であります。
※この内容については第35回日本森田療法学会で発表した。