約100年前森田正馬が考えたことが現代の脳科学者ダマシオの仮説と似ている
これに気付いたのは約3年前。
「感情」というキーワードをアマゾンで検索すると「無意識の脳 自己意識の脳」というダマシオの翻訳本があった。それがはじまりである。それからダマシオの本を数冊読んだ。
単純に次の文章を比較して欲しい。これは「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」から。アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳、訳者前書きより抜粋。
われわれが何か恐ろしい光景を目にして恐れの「感情」を経験する場合を考えてみる。その場合、体が硬直する、心臓がドキドキする、といった特有の身体的変化が生じるが、身体的変化として表出した生命調節のプロセスが、ダマシオの言う「情動」(この場合は「恐れの情動」)だ。一方、脳には、いま身体がどういう状態にあるかが刻一刻詳細に報告され、脳のしかるべき部位に、対応する「身体マップ」が形成されている。そしてわれわれが、その身体マップをもとに、ある限度を超えて身体的変化が生じたことを感じ取るとき、われわれは「恐れの感情」を経験することになる。
ダマシオの著作を読むうえで、訳者も指摘しているとおり、「情動」という言葉と「感情」という言葉の定義を把握することが特に重要である。ここで情動とは、「ある刺激に対する身体の変化」ということ。
次に森田正馬の著作、森田正馬全集 第一巻 精神療法の基礎 から
普通精神といえば多く自分の気分即ち感情および其の他の精神活動について自ら意識し得たる単に主観的のもののみ考えるようである。然るに此の意識というものは身体内部若しくは外界の刺激があって、神経に一定の興奮が起こった時初めてここに一定の気分を起こす。其の気分を起こし得る限界を感覚閾若しくは刺戟閾と名付ける。刺戟とは言いかえれば身体に及ぼす変化という事であって、例えば吾人が静かな室に寝ている時実際は音も光も外界無量の刺戟があり、内部には心臓拍動血行等絶えず刺戟があるけれども、何の感じも起らぬが、或る変わった音を聴き或いは胸騒ぎの起こるとき初めてここに或る気分を起こすのである。即ち吾人は此の身体に及ぼす変化というものを除いて全く気分というものを認める事は出来ない。
森田はこの引用部分で「気分」という言葉を「感情」という意味で使用している。
この二つの文章はまったくというほど似ている。
この森田の文章は、「精神療法の基礎」という論文に書かれてあることにも注目したい。約100年前の森田正馬の言葉が現代の脳科学者ダマシオの仮説と一致する。
このことから森田療法は脳科学的にもその効用が説明できるのではないだろうか。
この後、両者を比較しながら考察していきたいと思う。
※この内容については第34回日本森田療法学会で発表した。