デカルトは誤っていなかったのか?
ダマシオの著作を読んでいくと、矛盾する?部分があることに気づいた。
ダマシオの最初の一般向けの著作といってよい「デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳」(邦題、田中三彦訳)では以下のような部分がある。
これがデカルトの誤りである。すなわち、身体と心の深淵のごとき分離。大きさがあり、広がりがあり、機械的に動き、かぎりなく分割可能な身体と、大きさがなく、広がりがなく、押すことも引くこともできない、分割不可能な心との分離。理性、道徳的判断、そして身体の痛みや情動的激変に由来する苦しみが、身体から離れて存在するという考え。心のもっとも精緻な作用の、生物学的有機体の構造と作用からの分離。
デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 アントニオ・R・ダマシオ著 田中 三彦訳
ちくま学芸文庫 P377
明らかにデカルトの心身二元論は間違っていると書いている。ただ、その後出版された「自己が心にやってくる 意識ある脳の構築」(邦題、山形浩生訳)ではちょっと違っている。
別に片方は心的でもう片方は生物学的というわけではないのだ。身体には物理的延長があるが心にはないと言い、まるで両者が異なる物質でできているかのように言ったからといって、私はデカルトのような心身二元論者ではない。彼が心身二元論者だというのも、みんながそう思わせようとしているだけなのだ。私は単に、側面的な心身二元論をもてあそび、その両者が経験的な表面に浮かび出る形について論じていただけなのだ。だが、もちろん、心身二元論の真逆である一元論の旗手たる我が友スピノザもそれをやっている。
自己が心にやってくる 意識ある脳の構築 アントニオ・R・ダマシオ著 山形 浩生訳
早川書房 P83
この部分は何を意味しているのか、教養のない私には難しかったのだが、ある本を読んで少し理解したような気になった。それは「科学の世界と心の哲学 心は科学で解明できるか」(小林道夫著、中公新書)である。
しかし、ここで留意しなければならないのは、デカルトは、近代の機械論的物理学の土台を形成し、身体をも物理学の原理によって解明しようという機械論的生理学を初めて提示した人物だということである。彼は、科学者として、新しい(身体や脳を含む)機械論的物理学を形成し展開しようという意図のもの、それを可能にするものとして、純粋に物質的な物理的自然と身体とに対峙する、「非物体的実体」としての「私」を立てたのである。他方でデカルトは、「心身問題のアポリア」に直面し、「心身合一」を、科学的探究の対象たりえない「原始的概念」と認めるという、独自の答えを提示した。そして、その見地から、「情念」というものを、まずは、脳科学・神経生理学的アプローチによって説明しようとし、そのうえで哲学的・道徳的見地から究明しようとした。
科学の世界と心の哲学 心は科学で解明できるか 小林 道夫著 中公新書 P82~83
このように小林によると、近代的な科学研究のために必要だった心身二元論とは別に「心身合一」論をデカルトは示していたという。このことは非常に興味深い。それはダマシオの考えも、森田の考えも、もちろんまったく同じではないが、この心身合一論に近いからである。